「多摩川石談義」と称して始まった、石についてのお話の続き
前回に続き、今回も石にフォーカスして話を進めていく・・・というかなりニッチなことをしていきたいと思います。
(前回の多摩川石談義、「石が欲しいわけではなく、石を探す時間を楽しむ」はこちらから)
石の見方・愉しみ方
前回、「石拾い」について書いたわけなんですが、石の「見方」というのは実に様々です。
例えば、私はただ漠然と「美しい石を直感的に探す」というふうに石を探していたのですが、
そのとき一緒に(しぶしぶ)同行した妻は「顔みたいな石を探す」という見方で石を探していました。
妻が拾った石はたしかに顔のようで、なんとも言えない表情をしていたのを覚えています。
私はそういう風に石を探したことがなかったので、なんだかハッとしました。
まあ、
そもそも勝手に河原にいって、石を拾うというだけのことですから、
こうしないといけない
こうあるべきだ
なんていう主義主張自体、馬鹿げているんですが、人によって石の見方は様々なわけですね。
〇〇に見える、ということの普遍性
顔みたいな石といえば、面白いエピソードがあります。
以下は、ニューヨーク近代美術館の教育部に勤務していたアメリア・アレナスさんの著書『みる・かんがえる・はなす』の冒頭部分の抜粋。
一九二五年のこと、ある教師がボランティアとして遺跡の発掘を手伝っているうちに、珍しいものを発見した。洞窟の奥で見つけた小さな丸みを帯びた石が、どうも人間の顔に似ているのである。ひょっとするとこれは美術作品かもしれない。もしそうだとすると、小石は三百万年前にこのあたりに棲んでいた猿人アウストラロピテクスの化石にまじって出てきたのだから、現存する最古の美術品ということになる。(中略)この発見があってからまもなく、「美術作品」かもしれないとされていた小石は、じつは人の手でつくられたものではないということが判明した。信じられないことだが、私たちが目にしているのは、自然と偶然の悪戯でそんな形になった、鉄分を多く含む小石だったのである。
ちなみに、この「人間の顔に似ている小石」に含まれる鉄分比重は、発見現場周囲30km以内で手にすることが極めて困難であることが分かっています。
つまり、この石は
たまたまそこにあったのではなく、3百年前の猿人がわざわざ遠方で見つけたその石を持ち帰った
ということになります。
猿人が、この顔みたいな石について、どのように思ったかどうかは知るところではありませんが、自然が偶然に作り上げた顔のような造形にどこか共感し、身の回りに置いておいたのでしょう。
もしかしたら、
顔のような石をみつけて、
「あ、顔みたいだな」
と思う我々の「見方」というのは、3百万年前からあまり変わっていないのかもしれません。
そう考えると、なんだか不思議な気持ちになりませんか。
石の愉しみ方
石の「見方」も人それぞれですが、石の「愉しみ方」も人それぞれ。
さて、
先日も少し紹介したNHKの美の壺「いい感じの石ころ」で、後半に面白い「愉しみかた」をされている方を見つけました。
まるで、接着材や芯材でくっつけてあるようなこちらのアート。
重力に逆らっているような、実に不思議な光景ですね。
もちろん、小細工は一切なしの、ただ石を積み重ねていくことだけで造形された作品です。
(この背景、見覚えがある川だったので、もしや・・・と思ったのですが、やはり多摩川でした。)
この石積みアート、「ロック・バランシング」として少し前から海外でも話題になっていました。
参考:絶妙なバランス!石積みアート「ロック・バランシング」が凄い!
無我夢中になって、重心が安定するわずか一点を探していく・・・
という非常に根気のいる作業ですが、その時間自体を愉しんでいるようにも見受け取れました。
そういう意味では、石を拾う時間と同じような充足感を与えてくれるのかもしれません。
おまけ
さきほど少し触れた、石拾いに(しぶしぶ)同行した妻が拾った石の写真を見つけました。
うむ、なんともいえない表情をしてますね。