前回の多摩川建物探訪の後編です
前編はこちらから。
さて、「日本で1番美しい取水塔」を巡る旅として、はるばるここまでやってきました。
多摩川から採水して貯水される「村山貯水池」。
そして、そこに立つ美しい取水塔。
ですが、この場所で目にしたのはその美しい風景だけではありませんでした。
それは、村山貯水池に「戦争」が遺した爪痕。
今回は村山貯水池の歩んできた歴史を紐解いていきたいと思います。
村山貯水池と歴史
村山貯水池は1916年、東京市の人口増加に対応する水源確保のため、多摩川の水を羽村取水堰より採水し貯水するために作られました。
その後、およそ9年の歳月をかけて1927年に竣工を迎えます。
竣工後の1928年には、そばに「村山ホテル」が完成。美しい自然を眺望できる行楽地として、旧西武鉄道が行楽客誘致のために建設したそうです。
きっと、当時最先端のハイカラな取水塔もその役割を担っていたのでしょう。
↑1928年〜1943年の間のものと思われる、村山貯水池の貴重な写真。
村山ホテルが開業して、行楽客で賑わっていた頃でしょうか。
太平洋戦争が起こると、村山貯水池は空襲による攻撃目標となりやすいため、竣工当時の「堤体」部分を砂利とコンクリートで覆われ「耐弾層」が増築されます。
表面部分に露出した親柱には、爆撃機から目立たぬように黒いタールが塗られました。
周囲には高射砲やレーダー探知機、防空壕などが設置されるなど、美しい行楽地からは一転。
その後の東京大空襲では数百発の爆撃を受けますが、強固に補強された耐弾層のおかげもあり、村山貯水池は大破することなく戦後を迎えます。
↑戦後、そのままの状態で生き残った堤体。
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時は流れ、2004年。
耐震性の問題で村山貯水池は二度目の強化工事に着工します。
その際に、戦前築かれた耐弾層を取り壊していると、中から1916年当時の「高欄」や、帯弾層に覆われていた「親柱」の下部分が現れました。
頑丈なつくりの耐弾層に覆われていたために、1927年竣工当時の色・形をとどめていたのです。
東京都水道局は、これらを当時の土木技術を伝える貴重な遺産として、一部を残すことにしました。
↑これが中から出てきた「高欄」。
1927年竣工当時のまま、綺麗に保存されていました。
↑これが「親柱」。
上の黒くなっている部分は戦時中、目立ちにくくするために塗られたタールの色。
戦時中と戦前戦後の時代がくっきりと分かれていて、非常に象徴的。
上部のくぼみはおそらく同時期に取り外されたであろう電灯部分です。
もう一度、当時の写真を見てみましょう。
親柱、高欄がどこにあるか、わかりますか?
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一方で、1923年(大正12年)に堤体を盛り上げる際に使用した「排水路トンネル」も掘り出されました。
今では、場所を移してモニュメントのような形で佇んでいます。
はっきりと「大正十二年」という文字が。
いまから100年近く前の人工物とは思えないほど、綺麗な形状をとどめています。
ここで再び、現在の村山貯水池を見渡してみます。
背後に広がる広大な自然とハイカラな取水塔。
散策しているとこの村山貯水池が、
近代日本の成長と戦争、そして現代に至るまでの長い歴史を刻み込んでいるということを知りました。
なんだか、そうして再びこの景色を見渡したとき、最初に見た景色と少し見方が変わったような気がしました。
村山貯水池の歩み
- 1916年(大正5年) 村山下貯水池着工
- 1927年(昭和2年) 村山下貯水池竣工
- 1943年(昭和18年)空襲に備え、帯弾層竣工
- 1945年(昭和20年)終戦
- 2004年(平成16年)村山下貯水池堤体強化工事着工
- 2009年(平成21年)村山下貯水池堤体強化工事着工
アクセス
西武電鉄「西武遊園地駅」より徒歩3分