多摩川石談義「石ころから、芸術を考える」

多摩川と石について考えていく「多摩川談義」。今回は石と向かい合って感じた「美」について考えていきたいと思います。

自然物の美しさ、黄金比

例えば、スーパーで売っているアサリの貝殻の模様や、植物の枝葉の伸ばし方。

もし機会があったら今度じっくり見てみてください。

きっと、その優れた造形美に感動するはずです。

我々が「美しい」とか「かっこいい」「気持ちいい」と感じる人工物の多くは、こうした自然物から造形を拝借して作り出されています。

たとえば、パルテノン神殿、ヴァイオリン、Appleのロゴマーク。

これらはすべて統一された比率、「黄金比」「黄金分割」で構成されています。

Appleのロゴマークはおそらく「黄金比」を意識してデザインされたのだと想像しますが、古代ギリシアの時代(今からだいたい2500年前)に、

それを意図した建築設計にしていたかというのは少々疑問を感じます。

おそらく、もっと人間の本質的な部分で、無意識的にこの比率を選んだのでしょう。

もしかしたら、我々の祖先は自然物の持つ造形美を、人工物の「美」の基準として取り入れたのかもしれません。

アートとしての石

黄金比の話はとりあえず置いておいて、石の話に戻ります。

以前、この多摩川石談義で、石の「見かた」ということについて触れました。

同じ石でも、人によって見方はさまざまという話です。

私はある日、石を「美術作品」として見てみようと思い、河原一面に落ちている「作品」1個1個と向かい合いました。

するとどうでしょう。

そこには、マティスの版画をそのまま貼り付けたような石や、ジャクソン・ポロックの作品そのままなんじゃないかという石などが、ごろごろ転がってたのです。

ジャクソン・ポロック『秋のリズム:ナンバー30』(引用:MUSEY)

なにも絵画だけではありません。

青磁のような、なんとも繊細な透明感のある石、MOMAに展示してあってもおかしくないオブジェのような石など、

我々が普段「鑑賞」する作品と同じような魅力をそこに感じたのです。

茶碗の見かた

突然話は変わりますが、茶の湯で使うお茶碗の「良し悪し」について、私はまったく理解できていませんでした。

テレビの鑑定番組で偉い先生が「これは銘品だ」と言っても、いまいちピンとこない。

安物の茶碗と銘品と言われる茶碗の区別なんて、一生分からないんだろうな、

こういうのはきちんと勉強しないと分からない世界なんだろうな、

と思っていました。

ですが、最近改めてお茶碗を目にする機会があって、「ハッ」としました。

銘品と言われる茶碗には、自然物の持つ美しさ、エネルギーを感じるのです。

とても人の手で作られたとは思えない雰囲気と佇まい。

こんな事を言うと、偉い人たちに怒られるかもしれませんが、

まるで、それは私が多摩川でいつも見ている石ころのようでした。

もしかしたら陶芸作品の目指すところは、「自然物」なんじゃないか。

つまり、陶芸の究極的な作品というのは、人の手では手では決して生み出せないような、自然の持つ力や美しさ、存在感を感じさせるものなんじゃないだろうか。

そう思った訳です。

(重要文化財「黒楽茶碗 銘俊寛」引用:三井記念美術館)

それだけがお茶碗の良し悪しを判別する基準ではないだろうし、今でも私自身お茶碗に詳しいわけではないのですが、

ただ多摩川に転がっている石を色んな視点から見ていくだけで、芸術作品の新たな鑑賞方法を与えてくれたことは確かです。

そしてそれは私だけじゃなく、どんな人に対しても何かしら発見をもたらしてくれるはずです。

古代ギリシアの建築家が、自然物からヒントを得て美しい建築を生み出したように。

・・・どうですか?

ちょっとずつ河原に出かけて、石を探してみたくなってきませんか。

□過去の「多摩川石談義」はこちらからどうぞ

<<<摩川石談義「石が欲しいわけではなく、石を探す時間を楽しむ」

<<<多摩川石談義「石の見方と愉しみ方」